昭和五十四年九月二日 朝の御理解
天地書附 「生神金光大神 天地金乃神 一心に願 おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい」
おかげは和賀心にありと仰せられます。誰でもおかげを頂きたい、おかげを目指すわけですけれども、それには私共がたえず「和賀心」いうなら、この天地書附の御精神というものを私共の心からはずしてはならない。そして成程これではおかげが受けられん、という事が歴然と自分の心の中に感じられる。そこから色んな工夫がなされるわけ。教祖の神様はこの天地書附をお書下げになって、お参りをしてくる信者に、これを見易いところに張って置けとね、買い物に行く時にいろいろあれも買わんなん、これも買わんなんと思うような時には、こう手控えをしていくね、でないと忘れる。まあ折角行っとってから、はあ、あれを忘れて帰って来たといった事がないようにね。信心させて頂く者は、この天地書附をいっも自分の心に掛けておけと、見易いところに張っておけと言うて、お渡しになったのが金光教の信心の、命とも思われる素晴らしいみ教えになったわけね、ですから私共が毎日御祈念の時にこれをまあ連唱させてもらいますよねえ、だから連唱させて頂いとるだけではいけない。それが何時も連唱されておらなければと言うのは、何時も自分の心の中に掛けられておらなければならない。
そして、おかげは和賀心にありと仰せられるのですからね、和賀心、和賀心と自分の心の中にある和賀心とは、似ても似つかない心と入れ替えていかなきゃね。それをね、いうならばおかげを頂いておるうちにね、いつの間に自分の心が自分で拝めれるような心の状態に変わっていく楽しみ、喜びね。
昨日、或る方のお届けお取次さしてもらって、これは金銭の問題でしたけれども、とても普通ではおかげになりそうにもない、まあ大変なお願いでございました。それでもどうでもおかげ頂かなんならんと言うお届けでしたから、神様にお願いさして頂きましたら、『寸が尺になる』というお知らせを頂いたんです。一寸二寸の寸です、寸が尺になる。お互いがそう言うおかげをどうでも頂きたい時ってありますよね。信心もない、ないけれどもどうでもここに、これこれのおかげを受けなければならないという時があります。
これは私の体験ですけれども、まあ私が福岡で修行中の時分、朝の御理解を、福岡の吉木先生は毎朝、あのう御理解なさっておられました。そいでどうでもおかげを頂かなければならん時には、もう御理解の頂き方が違うんですね。何故かというとその御理解がね、そのまま血に肉になるというような事も行じも出来ませんけれども、その中の一言でもはっ、今日はこれでいこうと言うものが生れてくるんですね。だからその事を心にかけさせて頂いてそれを研かなければならない事なら研きもしょう、改まらねばならない事を感じたら改まりもさして頂こうという、という、もう不思議におかげを頂きましたですね。
まあ、私共の当時の商売というなら雲をつかむような商売でしたから、何時何処にどういうその、金儲けがあるやら分からないというようなお商売ですかね、ブロ-カ-ですから、繊維のブロ-カ-をしてましたからね。そういうようにです、皆さんが本当におかげを頂きたいならね、いわば本気で御理解を頂いて自分の…、はっ、今日はこれで行こうと、はあ今日はこの事を気付かせて頂いたね。この事をいうならば、改まろう自分のものにしょう、只漠然と話を覚えて帰らんでも一言でも話の中から、分からんときには二度も三度も聞いたがええ、いや感じない時にはいわゆるフイ-リングです、はあこれだ、というものをね。
私はそういう、あのう信心がです積もり積もって、いうならば山となると言うようにね、その僅かな信心ですけどもそれが五年経ち十年経ちするうちには、昨日の関さんのお話じゃないですけれどもね、物をいうならば、あっという間に盗られておる時に、「しもうたどこん奴が盗ったじゃか」と、そげな思いは全然しなかったち言うね。もう本当にそれこそ日頃頂いとる教えが、もうそれこそ、ひらめいたというか、もうその瞬間の、その自分の心の状態ですからねえ、やれ痛や今霊験をという心になれよとね。いうならばその瞬間あ、お取払いを頂いて有り難いと思うた、というお届けがあったんですね。しかも朝御祈念に参って来て、昼からお供え物を持って見えておる、いわば北野から電車、バスを使うてこう参って見えられるね。
神様へ心を向けて参って来とるのにそういう事が起こったとね、神様へお参りしょるとに、どうしてこげな事が起こったじゃろか、と言うふうにまあ思うてもいいようなもんだけれども、さあそれが日頃の信心です。も、あっと言うまの出来事でしたけれども、それを瞬間的に自分の心のとらえたのは、もう本当にいつの間に、こういう心が育っておっただろうかと言うのですね。誰が盗ったじゃろか、ま考えて見ると、そいばってん大難を小難でおかげ頂いたと、もう言うたら一歩後ひざりしとるからで、も一本勝負にはならんです。信心は一本勝負ですね。後から思い変えとか思い直しそれも有り難いですけれども本当のおかげはね、本当に御礼を申し上げねばならん事を、ま、半言でも悔やんだら、もうそれだけ遅れておると言うふうに悟らにやいけん。そこで日頃自分の心を本気で見極めよう、日頃本気でいっも自分の心の中に和賀心、和賀心といわば祈り願い続けて、そして何かの事があるたんびにね、例えばみ教えを頂いてです、はっ今日はこれで行こうと言ったようなものを感じたら、それがいよいよ和賀心を間違いのない和賀心に育てていくわけなんですね。
ですから信心というのは、もう心次第ですから、あの、もう実に微妙と言うたらこのように微妙なものはありません。デリケ-トです。そこに神様との交流点が生まれてくるんです。私はこの寸が尺になると頂いた時に、この寸という事をちよっと、という気が致しました。一寸と書いてちよっとというでしょね。ははあ只もうたんに、そういう難儀な問題、そういうどうでもと言うような、おかげを頂かなんならんというのを、なら奇跡的に大きなおかげを示すぞと、言うておられるのじゃないと言う気がしたんですね。寸の事でもよいから改まれ、ちよっとした事でもよいから気付かせて頂く処があろうがとね。もう一寸でもよいから神様が喜んで下さる、これなら絶対というような心を使えと、まあいろいろにここを頂けるところだと思うんですね。
だからこそ神様が、その寸の信心にでも、尺のおかげを下さるような、いうなら働きがおきてくる。それをキヤッチする、受け取めれる心なんですね。これを日に何回いわば唱えるだけでは和賀心にはなれません。おかげは和賀心にありと、勿論その和賀心の固まりのようなものが、私は生神金光大神の境地だと思います。どちらへ転がしてもそれこそ取られてもね、落としてもね、おかげを頂いて有り難いとこう和賀心で受けられるね、そのいうならそういう稽古なんです、金光様の御信心は。だからその和賀心をめざすと言うてもです、もう大変な事、大きな事という事はいらん。もうそれこそ一寸のことでいい、ちよっとしたことでよい、はっ今日はこれでいこうと、例えば心に閃いて参りますよね、本気で頂いて御覧なさい御理解を、はあ-そげな理屈のもんかと言うて理屈がわからんでいいですね。感じたところ自分の心に、だから十人おるなら十人違うかも分からんです、感じたところというのはね。だから感じるところをそれをそのまま本気で改まっていく、生活の上にそれを現していくということ。
そういう私は積み重ねが、いわゆる、いよいよ和賀心を揺るぎのないものにして行くもんだと思うんですね。天地書附というのは金光教の信心のいうならお題目ね。だからと言うてそのお題目を、そりゃ今、あのう或る教会で、もう天地書附を、もう何十回ともなしに繰り返し連唱しておられるという教会があるそうですがね。連唱しておるうちにです、本当に自分な和賀心ではない、お粗末な心に気付かせてもろうて、そしてそれを和賀心にならせて頂こうという精進をするね。それを今日は私共がね、ちよっとでもよいからいうなら御理解を頂きながら感じたこと、もし今日はなあにん感じんやった、今日はどげな御理解でしたかのち、言うごたる時にはもう一辺頂いてみるんですね。テ-プで聞かしてもらったりね、三辺聞いてもいいのです。
そしてそこをとらえて、いうならば今日のおかげの、いうならばおかげの原動力とでも申しましょうね、おかげのいうなら要素、と言ったようなものを自分の心にぴしっと頂き止める、そういう工夫がね、いるんだと、今日私は寸が尺になる程しのおかげを頂く為に、私共は何時も、その心掛けをしとかなければならないと思います。
どうぞ。